給食の歴史 (岩波新書)
によって 藤原 辰史
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ペーパーバック : 210 ページ
作者 : 藤原 辰史
出版社 : 岩波書店 (2018/11/20)
コレクション : 本
ISBN-10 : 4004317487
フォーマット : Paperback, Hardcover, Epub, PDF, Kindle
発行日 : 2018/11/20
平均的な顧客フィードバック : 4.6 5つ星のうち(15人の読者)
ファイル名 : 給食の歴史-岩波新書.pdf (サーバー速度29.18 Mbps)
ファイルサイズ : 28.98 MB
作者 : 藤原 辰史
出版社 : 岩波書店 (2018/11/20)
コレクション : 本
ISBN-10 : 4004317487
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この美しい給食の歴史 (岩波新書)の本をダウンロードして、後で読んでください。 この素晴らしい本を誰が書いたのか知りたいですか? はい、藤原 辰史は給食の歴史 (岩波新書)の作成者です。 この本は、いくつかのページページで構成されています。 岩波書店 (2018/11/20)は、給食の歴史 (岩波新書)を公開する会社です。 2018/11/20は初めてのリリース日です。 今タイトルを読んでください、それは最も興味深いトピックです。 ただし、読む時間がない場合は、給食の歴史 (岩波新書)をデバイスにダウンロードして、後で確認することができます。
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藤原 辰史の本給食の歴史 (岩波新書)をダウンロード[EPUB]-電子ブックをダウンロード以下は 給食の歴史 (岩波新書) の最も正直なレビューです。 この本を読んだり購入したりする場合は、これを検討してください。
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『輝ける闇』(毎日出版文化賞受賞)『夏の闇』(フィンランド文部大臣賞受賞)『花終る闇』(未完)(以上「闇三部作」)『耳の物語』(日本文学大賞受賞)『珠玉』(絶筆)などの作品で知られノーベル文学賞もとりざたされた開高健(1930-1989)は終戦直後の旧制中学校における欠食(昼食を抜くこと)について小説でも随筆でもたびたび書いています。開高健は戦争中の1943年旧制・大阪府立天王寺中学(現在の天王寺高校)(旧制中学は5年制)に入学します。その年国民学校教頭であった父が病死一気に生活は困窮します。戦争中はまだ市民はほぼ平等におしなべて貧しかったのですが1945年8月15日、敗戦。その後、闇市が繁盛し飢える者と飢えていない者の格差が歴然とあらわれます。配給だけでは生存できません。一家の大黒柱を失っていた開高家は最極貧にまで落ち込みました。夕食はローソクのもと祖父・母・叔母・妹二人・そして開高自身の6人が争うようにふかしたイモを食べるのがやっとでした。(みんな殺人鬼の目つきをしていたと書いています)学校に持っていく弁当などありません。開高は昼休みになると一人静かに教室を出て校舎のウラの水道で満腹になるほど水を飲みズボンのベルトをきつくしめ上げると教室に戻るという生活を繰り返していました。ある日何食わぬ顔で教室に戻ると机の中にイモで作ったパンが押し込んでありました。羞恥心で真っ赤になった開高は教室を飛び出します。あとを追っかけてきた旧友が「トトチャブはつらいやろ。うちはまだなんとかやっていける。悪いけど黙って食べてくれや」とおろおろした口調で言い足早に去って行った。というエピソードが『青い月曜日』でも『耳の物語』でも『花終る闇』でもそのほかの随筆でも繰り返し語られています。小説家・開高健にとってひとつの原体験でありました。後年、開高が美食家として食について語り・書くようになったのはこのときの反動かもしれません。ちなみに「トトチャブ」とは水だけ飲んで食事のかわりとすることの当時の隠語(ないし方言)です。正確な年代・時期は覚えていませんが東北地方の小学校で机の上のわら半紙の上に焼きシャケの切り身をひとつずつ教師が生徒にハシで配って給食としているというニュース映画を見た開高はもう大人になっていましたが映画館の便所に隠れて号泣した‥と随筆に書いていました。こうした根源的な「飢餓」に対しては学校給食が一定の役割を果たすであろうことは予想がつきます。しかし明もあれば暗もあり光もあれば影もあります。後述いたしますが私にとって給食は苦痛を通り越して虐待人権侵害を超えて暴力というくらいの心的外傷を受けいまだに怨念と憎悪の対象です。さて本書は農業史の専門家である著者が貧困・災害・運動・教育・世界という5つの切り口で切った日本の学校の給食の歴史です。新書であり一般人を対象にしていると想定されますがなかなか本格的な本と思います。著者によりますと給食の歴史はおおむね次の4つの時期に分かれます。①萌芽期②占領期③発展期④行革期です。本書においては「まえがき」と第1章でまず「舞台」となる給食を概説し2章から5章まででそれぞれ上記の①から④の時期を記述第6章と「あとがき」で将来を展望します。私は牛乳が飲めません。大人になってわかったのですが乳糖(ラクトース)分解酵素であるラクターゼを持っていないからです。正確に言うとラクターゼ活性が低いからです。ヒトも含めて哺乳類全般は離乳とともにラクターゼ活性が低下します。成人になっても活性が持続するのをラクターゼ活性持続症と言います。欧米人は日本人より圧倒的にラクターゼ活性持続症が多いです。欧米人の価値観そのままに私のような日本人に牛乳を飲ませると乳糖を分解できないので吐き気や下痢などの症状が起こります。乳糖不耐症と呼ばれることもあります。同様に給食とは関係ありませんがアルコール分解酵素もアセトアルデヒド分解酵素もともに活性が低い(ない)のでアルコールも全く飲めません。小学4年生のとき学級担任は体育専門の男性教師でした。小学校ですから(音楽以外の)すべての教科を学級担任が教えます。学級担任は「給食指導」というより「給食『完食』指導」に熱心でした。熱心というよりサディスティックでした。4年生になった初日学級担任はすべての児童について①牛乳・②パン・③おかずのそれぞれについて「完食したか/残したか」を○×式で記録するための方眼紙をとじた分厚い閻魔(えんま)帳を作りました私は3つの欄すべてで×でした。2日目完食できなかった班もしくは完食するのがいちばん遅かった班を給食当番にする制度を導入しました。私の班はいつも給食当番でした。完食できないことを「罪」と規定し「罪」を犯した児童たちは「罰」を受けなければならないという発想による「指導」です。その後完食できない児童は給食時間が終わっても昼休み時間になっても掃除の時間になっても要するに5時間目が始まるまで食べ続けるように強制されました。給食時間は自分の机と椅子で給食を食べます。昼休みになると机と椅子は掃除に備えて教室のうしろの方へ寄せてしまいます。だから他人の机や椅子を借りて教室の隅、机の端で食べ続けます。掃除の時間になると教室から追い出され廊下でコンクリートの床に正座し床に直接、牛乳瓶や食器を置いて食べ続けました。食べるのが遅いというよりは全く食べられないので廊下に正座して吐き気をこらえつつ食べる努力をするだけでした。5時間目開始の鐘が鳴ると自分で牛乳瓶や食器を給食室まで持って行き残飯を始末していました。ここまでやらされる児童はたいてい私一人でした。たまにもう一人くらい児童がいました。二人で廊下に正座して食べる努力をしていると学級担任がやって来てもう一人の児童の口の中に無理やりコッペパンを突っ込みました。その児童は泣きながらコッペパンを食べようとしましたがもどしてしまいました。「次は自分の番だ」と私は覚悟を決めていましたが学級担任は去って行きました。吐いたものを始末するのが嫌だったのでしょう。後年ナチス・ドイツによる強制収容所の記録映画を見たときあのときの恐怖心がまざまざとよみがえったものです。ナチス親衛隊の看守の顔は学級担任の顔でした。今になって振り返るとあんなものは給食「指導」ではなくてただの虐待・暴虐・形を変えた暴力としか思えません。まさか現在このような野蛮な「指導」はなくなったと思っていましたがときどきそうではないことを示すニュースを見聞きします。たいへん残念です。結局4年生の大半をこうして過ごしました。「給食のない国に行きたい」と切実に思いました。数学者・藤原正彦氏(1943-)によりますと英国には給食はないもようです。「サンドイッチを持って来る子と自宅に帰る子が半分強で残りはリンゴ1個とか、バナナ1本、ニンジン1本とチョコレートバー1本などと様々だった」さらに英国では「ルールで食生活を規制する、などというのは、国民性に合わないからあり得ない」と述べています。英国がノーベル賞やフィールズ賞の受賞者を多く輩出している理由の一因はここにあると思います。藤原正彦『遙かなるケンブリッジ』(新潮社 1991 後に新潮文庫)(P.62)をお読みいただけると幸いです。小学4年生の私は毎日毎日廊下に正座して食べられない給食と対峙していました。あの地獄のような日々に比べるとその後の受験勉強や資格試験や就職試験などはまったくの天国です。大人になってからの公私のトラブル上司からの嫌がらせや今でいうパワーハラスメント部下からの突き上げ同僚による足の引っ張り合いモンスターのような仕事上の対人関係あるいは私生活でなめた辛酸など「給食という煉獄」に比べれば何でもありません。個人的には私は「核兵器と給食の廃絶」を究極の理想としています。どちらも私にとっては非人道的・非人間的だからです。しかし冒頭に引用した開高健のような人生を知るにつれ核兵器はともかくとして給食は条件付きで存在を認めてもいいかもしれないと思います。問題は給食そのものではなく「給食指導」や「学級担任」にあると考えられるからです。なぜ私が給食を食べられなかったというと牛乳に関しては上述の通り乳糖分解酵素(ラクターゼ)活性がなかったからです。そのほかのものも全く食べられませんでした。その理由は学級担任が恐怖と恫喝で支配していたので「給食を食べなければ」という緊張のあまり交感神経優位になりストレスホルモンが大量に分泌され胃腸がほぼ活動を停止し消化も嚥下も咀嚼も摂食もできない状態になっていたからと思われます。朝食を抜いていけば給食が食べられるだろうと子ども心に考えましたが恐い給食の時間になるとまったく食欲がなくなり一切の食物が喉を通らず廊下に正座して給食と対峙することの繰り返しでした。私がその後の人生で朝食をとらなくなったのは小学4年時の長き後遺症です。その点においては給食によって私の人生は破壊されたも同然です。実は「半死の白頭翁」となった現在でも「会食恐怖症」が心的外傷として残っています。忘年会・新年会・宴会はもちろん単なる食事会であっても口実を作ってたびたび欠席しました。給食の恐怖がよみがえると足がすくんでしまうのです。「これは給食じゃない」と自己暗示にかけなんとかやりくりしています。私はもともと中肉中背で読書は好きでしたがスポーツは嫌いでした。(だから体育教師である学級担任から目をつけられたのかもしれません)人前に出るのは嫌いでしたが学業はふつうにできたのでおとなしくてお人よしという性格であったように思います。ところが上述の通り4年生を通して給食・昼休み後の掃除の時間までたった一人で廊下で正座し給食と対峙していたので「あいつは根性がある」と思われたのか翌年の1月つまり3学期になって学級委員の選挙(単記無記名投票)をしたところ私が学級委員長に当選するという大ばんくるわせが起こりました。それまでは学業も運動もできるしっかりした女子児童が学級委員長になるケースが多かったものです。結果を知った学級担任が苦虫をかみつぶしたような顔をしたのを今でもよく覚えています。(もっとも私は給食同様学級委員も嫌いでした)最後になりましたが農業史の専門家である著者には私が体験したような「暴虐としての給食(指導)」について特化しいっそう深化した本の出版を希望してやみません。
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